『ハンセン病 重監房の記録』・著者ノート

■映画を撮るように

 この本は、ハンセン病問題のことを「ほとんど何も知らなかった著者」が、「まだよく知らずにいる読者」に向けて書いた本です。そうはいっても、「ハンセン病問題」という難しいテーマの読み物を、そう簡単に手にとってもらえるとは思えません。そこで、この本を書くにあたって、私は極力「面白く、読みやすく」ということを意識しました。

 しかしながら、そもそも軽薄な態度で書けるテーマではありませんし、自分の専門である生命倫理の視点など、学術的な内容も盛り込まなければなりません。どうしたものか、と考えたときに、「映画を撮るような気持ちで構成を考えよう」と思い浮かびました。

 導入部は、ハンセン病問題に一つの決着をつけた、2001年5月11日の「ハンセン病国家賠償訴訟・熊本地裁判決」の夜のニュース番組の画面から始まります。テレビ画面に、この裁判で国などを訴えた原告の「元患者」の人たちが、裁判の経緯や今後の問題などについて熱っぽく語っていました。ちなみに「元患者」という言い方をするのは、彼らはハンセン病が完治しており、すでに「患者」ではないからです。最近では「回復者」という言い方も好まれています。

 画面を見ているうちに、そのなかの一人の口元から唾液がキラリと光って落ちました。ハンセン病は治っているのですが、後遺症のために、話などをするときに唾液がこぼれてしまうのです。私はその映像と、それを見ながら抱いた感覚を、この本の最初に持ってこようと思いました。そこにハンセン病問題というものが凝縮されているように感じたからです。

 ハンセン病問題をよく知らない人が、単純にテレビを見ていれば、その様子を見て、「汚らしい」と感じたかもしれません。しかし、ニュース番組に登場した回復者たちは、自分たちが不当に置かれてきた境遇について、テレビを通して訴えていました。それは理路整然としている上に、人の心をうつ訴えでした。病気やその後遺症、あるいは様々な障害のために、口もとから唾液がこぼれてしまう人は、世の中にたくさんいます。その人たちの姿を前にして、「汚らしい」という感情を抱くのは、人間というものの性質なのかもしれません。しかし、「この人たちの訴えを聞かなければならない」という倫理的な責任のようなものを感じるのも、やはり人間の性質でしょう。その矛盾する二つの性質を、両方ともしっかりと見極めなければ、ハンセン病問題は「解決」しないだろうし、もっと広く言えば、病気や障害に対する差別偏見はなくならないだろうと、思いました。

 次の「場面」として、新潟大学でのエピソードを描くことにしました。皆さんは学内で毎年開かれる「全学講義」を聞きにいったことがありますか?  これは、 ノーベル賞受賞者など、日本を代表するような優れた研究者・専門家をお呼びすることが多い講演会ですが、私たちは医学部主催の「全学講義」に、ハンセン病の回復者を招くことにしました。それも、あのニュース番組に出ていた人--谺雄二(こだまゆうじ)さんという、群馬・草津にある国立療養所栗生楽泉園(くりゅうらくせんえん)に暮らす方でした。私も含めて、このときのバタバタした様子の一端を本書に書いたので、ぜひ読んでみてください。「ハンセン病患者だった人」の大半が、志半ばで療養所に隔離され、学校にも行けず、職業に就くこともできませんでした。しかし、講師を呼ぶ時の手続きとして、履歴書を書いてもらうことになりました。なんとも失礼な話ですが、平謝りに謝って書いてもらいました。

■『魔の山』

 それから、私は生まれて初めて、ハンセン病療養所を訪れました。その時の、あの「シュール」な感覚は、今も鮮明に残っています。とにかく現実離れした感覚--同じ日本に、このような場所があったのかと呆気にとられるような感覚に包まれました。皆さんは、トーマス・マンの『魔の山』という小説を読みましたか? 私はハンセン病療養所を歩きながら、あの本を読んだときの感覚を思い出し、どうにかしてこの「シュール」な感じを描きたいと思いました。療養所に暮らす人たちは、『魔の山』の登場人物のように、じつにユニークで、個性的でした。中には大変に博学な方もいました。

 しかし、『魔の山』のような可笑しさ・諧謔味は、その場所で暮らしてきた人たちの話を聞くうちに、吹き飛んでしまいました。谺さんは、電動車椅子に乗って、療養所をゆっくりと巡りながら、私にそれぞれの場所でどんなことがあったのかを、分かりやすく、また生々しく説明してくれました。その中には、とても血なまぐさい内容のものもありました。例えば、下に示したのは、療養所の片隅にある供養碑です。一見すると、どこにでもありそうな碑で、気にもかけずに通り過ぎてしまいそうな感じがします。

しかし、この碑の前に来て、谺さんはこんな話を聞かせてくれました。本文から引用します。

「生活燃料として薪を使ったけど、火葬場もここにあったんです。火葬場跡地が、今、碑が見えるあそこにあった。火葬場で遺体を焼くのに薪で焼いていた。だけどその薪の不足のために十分に焼けない。遺族なんかが来て骨上げをする前に、焼け残ってブスブスした部分をここに捨てたんです。戦争末期の昭和19年か20年頃には、一日に二人も三人も亡くなる。十何パーセント--13パーセントくらいかねえ、死亡率が。すごい死に方でしたよ。それを昭和51年ごろ、ようやく一般社会の火葬場で我々の遺体も焼かれるようになって、それで骨を拾い集めて、ここの碑に祀ったんです。」 (本書34ページ)

■立ち去りがたい感覚

 そのような話を聞くと、自分の足が石のように固まって、そこに立ちつくしてしまいそうな気がしました。広大で、静かで、人気の少ない療養所の道々に、そんなすさまじい場所がたくさんあるのです。
 最後に案内されたのが、本書のタイトルにもなっている「重監房」という場所でした(下の写真)。重監房はハンセン病問題の本には大抵触れられている有名な施設なので、多少のことは知っていました。1938年に設置され、47年まで運用された「懲罰施設」で、この9年間に93名の患者が収監され、そのうち14名が監禁中に死亡した。8名が衰弱して外に出され、まもなく亡くなった--。

 しかし、その場所に立ってみると、それまで気づきもしなかった疑問が頭を駆けめぐりました。そもそもなぜ、このハンセン病患者の療養所であるはずの場所に、そのような懲罰施設があったのか? 懲罰施設というからには、裁判のようなものが行われたのか? いったいどんな罪を犯した人が、ここへ入れられたのか? --土台だけが残る重監房の跡地を歩き回りながら、私にとってのハンセン病問題への旅が始まったような気がしました。

■ハンセン病問題への「旅」

 この本を書いたときのことをあらためて思い返してみると、そうやってハンセン病問題の一端に触れた私が、生命倫理学という自分の専門分野を振り返りながら、どうにかしてこの大きな問題に近づいていった旅の記録であるような気がします。また、ハンセン病問題をほとんど知らない人に読んでもらっても、たぶん、この大きな問題を巡って旅をするような感覚を味わってもらえるかもしれません。本の構成も旅をするような順序になっています。「医学の物語」から入って、宗教の歴史にハンセン病患者への差別の原因をさぐる「烙印の物語」へ、そして外国の様子に目を転じます。とりわけ、欧米列強の植民地となった地域では、強い隔離政策が行われました。

 日本が近代化を強力に押し進めた時代こそ、ハンセン病患者への強制的な隔離が行われた時代でした。欧米によって植民地化された地域と、日本という「植民地化を免れ、逆にそれを『する側』になった国」とを比べてみると、日本のハンセン病患者がなぜあのように強力な隔離をされてしまったのかが、より鮮明に理解できるように思います。そうやって時代と国境を越えた旅の果てに、私たちは群馬県の栗生楽泉園にある、懲罰施設・重監房に戻ってきます。世界各国のハンセン病政策を眺めても、この場所のようにたくさんの患者を閉じ込めて、死に至らしめた施設はありませんでした。旅を終えて、その場所がとても特別な歴史的意味を持つ場所であることが、あらためて分かります。

 生命倫理学を学ぶ立場で、本を書くということ--あるいは研究論文を書くということには、多少なりとも責任の自覚が要るように感じました。根拠を明確にするために、文献やデータをきちんと提示しなければなりません。さらには、実際に体験した人に聞いてみないと分からないことがたくさんあります。そのために、この本を書く準備として、重監房のことをよく知っている人たちにインタビューをしなければなりませんでした。

 そのようにして、苦労してできあがった本ですが、嬉しいことに、栗生楽泉園に暮らす人たち--彼らはハンセン病問題を題材にした本や映画などについて、ものすごく厳しい批評家です--から、正確で読みやすい、と褒めていただくことができました。この問題に深く関わってきた医師や歴史学者などからも、よく調べて書いている、という趣旨の評価をいただきました。どれほどホッとしたことか分かりません。

 この本を書いたことは、本当によい経験でした。今後また本を書くことでしょうが、この経験が多くの面で糧になってくれる気がします。

 この本で描かれている様々な場面で、新潟大学の教職員の皆さんや学生さんたちからご協力をいただきました。最後にあらためて感謝を申し上げておきたいと思います。ありがとうございました。

 

© Michio Miyasaka 2014